西善寺の歴史

西善(禅)寺の歴史と秩父礼所

 

草創と秩父札所の成立

當山の草創は鎌倉時代初期(1200年頃)一人の旅の僧侶が武甲山の麓にお堂(根岸堂)を建立したことに始まります。

文暦元年(1234)十三人の権者によって秩父盆地に三十三観音霊場が成立 當山も十一面観音を御本尊として三十一番札所に定められます。※秩父札所の成立年代は諸説あります。

恵心僧都作と伝えられている 十一面観世音菩薩は【別名 持山観音】と呼ばれており十一面観音では珍しく坐像です。

秘仏であり非公開ですが12年に1度 午歳に御開帳されます。これは文暦元年が甲午(きのえうま)歳であったことに起因すると伝えられています。

 

 

 朝廷と貴族からの寄進や庇護で幾多の大伽藍を有する西国礼所  源頼朝に始まる鎌倉幕府の庇護のもと発展した坂東礼所  そして武甲山をはじめ三峰・両神・慈光三山を基に修行者の修験道場として発展した秩父礼所  それぞれ規模や歴史の差はありますが300年後には日本百観音霊場として成立し広く知られていくようになります。

臨済禅の興隆と西禅(善)寺開山

鎌倉幕府が成立し北条政権へと安定を迎えた頃、京都や鎌倉を中心に臨済宗が興隆しはじめます。
さらに室町時代になると多くの優秀な禅僧が登場し全国へ広がり始めます。秩父にも鎌倉円覚寺の白涯寛正禅師が熊谷直俊公の招請に応じて応安元年(1373)圓福禅寺(幻住派)を開山されます。
以後、道場として多くの弟子を育成し白涯禅の本派として発展しました。一時は末寺が300もあったそうです。

白涯禅師亡き後、圓福寺三世となっていた竹印昌岩禅師が長興寺(五番)を開山し続いて寛正元年(1460)西禅(善)寺を開山されます。
禅宗寺院でありながら阿弥陀仏三尊を御本尊とした背景は、おそらく元々古くから浄土思想が庶民に信仰されていてお堂が存在していたこと、根古屋城下には複数の寺院が建立されていた、または建立されつつあったこと、見事な若々しいカエデがあったこと、それらを受け入れる禅宗の柔軟さがあったことによると考えられます。
また、荒廃していた根岸堂を當山が別当寺として管理するようになるのもこの頃です。室町時代の長享二年(1488)秩父巡礼、最古の文献『長享番付』には【三一番 西禅師 十一面】と記録されています。

永正十二年(1515) 関東管領に上杉憲房が就任すると戦乱で荒廃していた根古屋城を再整備します。
同時に中興開基として當山の諸堂の建立、伽藍の整備を進め、根岸堂も境内へ移築し観音様を直接管理することになります。
これを機会に西禅寺から西善寺と寺名も変わります。

《 清泰山西善(禅)寺 》

【 清く泰らかな西方浄土の善(禅)き寺 】 このように読み解けば面白く身近に感じられます。

※その功績を称え白馬に跨った上杉憲房公の木造と位牌が作られました。(非公開)
※墓所は深谷市 昌福寺
※2025年に上杉憲房公 開基龍洞院殿大成道憲大禅定門500年忌

民衆の観音巡礼へ

江戸時代に入ると関所がいないこともあり江戸からの民衆による観音巡礼が盛んになります。
その為、道順の利便性を配慮し巡礼順序(札所番号)を改編し「河越通り」板東九番慈光寺経由で栃谷の四万部観音を秩父一番として當寺は三十一番から八番に変わります。
寛延三年(1750)の午歳給開帳には秩父巡礼は5万人あったという記録もあります。

江戸時代後期には二度の火災に遭いながら弘化二年(1845)現本堂を再建します。
しかしながら、明治時代に廃仏毀釈の影響により根岸堂が壊され十一面観音は本堂に移され現在に至ります。
また、平成十五年(2003)に本堂の大改修を行い創建当初の麦藁葺屋根風の銅板つくりに改めました。

★秩父三十四観音霊場公式HPアドレス
www.chichibufudasho.com